「パッヘルベルのカノン」はなぜニ長調か?

現代の西洋音楽(日本のポップミュージック等も含む)において、特に鍵盤楽器や電子楽器などはほとんど無意識のうちに、平均律に調律されたものが用いられている。平均律というのはどの半音階(ド−ド#など)の振動数(周波数)の比が一定である音階のこと。半音の幅にばらつきがないことなんて、我々には当たり前のことかもしれないが、バロックや古典派の多くの作曲家たちは平均律を用いていなかった。

16世紀前半に発明された中全音律は結局ハイドン、モーツァルトにまで影響を及ぼしたし、また、パッヘルベルの頃に開発されたヴェルクマイスター律やJ.S.バッハの頃のキルンベルガー律に代表されるウェル・テンペラメント(快適音律)など、実は様々な音律が存在する。この頃の曲には、和音のにごり具合や旋律のスムーズさを計算して作られている作品が多い。平均律ではない、その時代相応の音律で演奏しないと、作曲者の意図の伝わらない可能性がある。バッハの有名な「平均律クラヴィーア曲集」のDas wohltemperierte Clavier (Well Temperated Clavichord) も、後の人が不均等調整音律を誤解したものとする説が有力である。

平均律とこれらの音律との違いは、調性格という面に大きく関わる。例えば同じ曲をハ長調とニ長調とで演奏すると聴衆に与える印象が違うのかどうかということ。もっと具体的には、ハ長調の主和音(ドミソ)の和音は平均律では濁って聞こえるが(実はミの音に原因がある)、同じ和音が中全音律などでは澄んで聞こえる。一方で変ロ長調の主和音の場合、平均律ではハ長調の主和音と同じ程度の濁りであるが、中全音律では濁りが更にひどくなる。つまり主調の違いによって曲の表情もだいぶ変わってくるということだ。

通奏低音に用いられたであろうチェンバロは、少なくとも当時は平均律への調律は技術的に不可能であったから、中全音律やその改良型の音律に合わせて調律されていた可能性が高い。カノンで使われる和音、特に主和音の響きの良さを追及した場合、中全音律で使えるニ長調周辺の高さの調は変ロ長調・ハ長調・ニ長調・へ長調・ト長調になるが、これらのうち変ロ長調はヴァイオリンの音域では演奏不可能である。逆にへ長調やト長調では使用音が高くなりすぎてしまう。パッヘルベルの他の室内楽曲では、ヴァイオリンの最高音はほとんどc'''音かd'''音であるが、ニ長調のカノンでは既にd'''音を使用している。より高い調への移調はパッヘルベルの意図するところではないであろう。

一般に中全音律では「よく響く」調どうしの移調は可能だとされている。ニ長調をハ長調に転調しても曲全体の響きは変わらない。しかしヴェルクマイスターIIIなどの発展した形の音律では、ニ長調とハ長調とでは響きも少し変わってくる。これが調性格論で、調によって表情がある程度決定されると言う考え方である。パッヘルベルも調性格にはそれなりにこだわっていたとする資料もある。一般にハ長調には「中性・無垢」、ニ長調には「陽気・勝利の喜び」というイメージが強いようである。

カノンだけを取り上げるならば、ハ長調でもそれほど悪くないかもしれない。実際パッヘルベルの作曲したフーガはハ長調のものが他の調のものに比べて極めて多く、対位法のセンスの良さがストレートに表現されているし、カノンをハ長調で演奏しても同様の効果が得られるかもしれない。しかし、カノンと一緒のジーグの存在を忘れてはならない。2つ合わせて1つの組曲なのである。ジーグは8分の12のリズミカルな舞曲。パッヘルベルの室内楽曲はほとんど舞曲であり、曲の構造のみを表わす「カノン」の存在はむしろ非常に例外的である。「カノンとジーグ ニ長調」におけるジーグは、カノンの影響を受けて、高音のスタッカートから鋭く切れ込んでくる旋律が何度も時間・パートを超えて、まるで短いフーガの主題のように顔を出してくる、明らかに力強く元気なメロディー。行儀の良いハ長調よりは、ニ長調のほうがずっと似つかわしい。

そうは言っても、我々の耳(特に私自身)は既に平均律で十分慣らされ過ぎている。では、平均律で演奏される限り、ハ長調や変ホ長調などに移調されても、同じ平均律の曲として認識されるのだろうか。音律の理論からすれば、平均律における調性格は全く存在しない。人間に感じやすい音の振動数があるのではないかとする仮説も、ハ長調とニ長調を使い分けられるような明快な証明には至っていない模様である。だが一方で、アコースティックな楽器においては、各楽器の構造上の特性から、音律以外の要因も調性格に影響しているだろうと考えられている。ヴァイオリンやチェロは、4本ある弦のうち2本の開放弦はD音、A音である。これらはニ長調のドとソの音に相当する、メロディーや和音にとって非常に重要な音。従ってニ長調はこれらの楽器がとてもよく響き、また最も演奏しやすい調のひとつとされている。同様の理由で、カノンを変ホ長調でトランペットに演奏させると、ものすごく哀愁を帯びた曲となるに違いない。

参考文献

高橋彰彦 「複合純正音律ピアノのすすめ」 1992, 音楽の友社
H.ケレタート著、竹内ふみ子訳 「音律について 下巻」 1999, シンフォニア

2001年8月7日

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